韓国在住14年、Takeさんの韓国情報ブログのバックナンバーです。

Takeさんの韓国見聞録      2007.03.11発行  NO.64

<古くからの友人、韓国をよく理解するための日本人サラリーマン日記>

Takeさん@韓国ソウルです。

最近、ソウルでは「4月の雪」ならぬ3月の雪に見舞われています。もちろん雪は直ぐに溶けて無くなってしまいますが、寒さが逆戻りしてしまった感があります。数日前に春の訪れを告げるケナリ(連翹)の開花予想が発表されましたが、今年は例年よりも暖冬と言うことで、ソウルの開花は3/27頃との事です。しかし、最後の方になって急に寒くなったので、もう少し遅れるかもしれませんね。いずれにしてもあと少しでケナリの季節に入り、春はすぐそこまで来ているのだと思います。

■本日のサラリーマン日記「街道をゆく 韓のくに紀行を読んで」

旧正月の連休で日本に帰省した時に、自宅の近所に新しくできたブックオフで司馬遼太郎の「街道をゆく 韓のくに紀行」を手に入れました。前回のメルマガで私が歴史小説好きである事をお話ししましたが、司馬先生はその中でも一番好きな作家の一人でもあります。

読み始めてみると司馬先生がこの本を出版するために韓国を訪れたのが1971年である事に驚きました。日本の植民地支配から解放されて26年、日韓修好条約が成立して、わずか6年後に韓国を訪問している事になります。今でこそ韓流ブームとか言われ注目されている韓国ですが、その当時の状況は私にも想像ができません。この本を読んでいると司馬先生が韓国(ここではあえて朝鮮と表現した方が良いかと思いますが)にかなり入れ込んでいた事がわかります。

http://www.geocities.jp/korea_faq/No64/070609-1.jpg

そもそも私がこの本を読んでみたかった一番の理由は、今から400年程前に秀吉が朝鮮半島に侵略してきた時に、約3000人の部下を引き連れて帰化してしまったと言われる沙也可(サヤカ)という人物に関して詳しく知ってみたいという思いからでした。当時、沙也可は日本にしかない鉄砲技術を朝鮮軍に伝授し、自らも秀吉軍と交戦して大きな成果を収めたと伝えられています。

沙也可という単語がいつの日から私の頭の中にインプットされたのか、よく覚えていないのですが、何故か私の頭の片隅にじっとしまい込まれている、、、そんな感覚を今に至るまで持っていました。

私の家内の故郷が全羅北道で、以前にお世話になっていた会社が慶尚南道の昌原(チャンウォン)にあった事から、新婚当時は全羅道と慶尚道の間をよくドライブしたものでした。ある時、道に迷ってしまい適当に走っていたら日本でよく見かけるような段々畑のようなものが視界に広がってきて、一瞬、日本の田舎道を走っているような感覚に襲われたのですが、後から考えるとあそこが沙也可が暮らしていた村かもしれない、、、という思いが常にあったのです。

その後ソウルに来てしまったので確認したわけではないのですが、今回、この本を読んでみて、ぜひ友鹿洞(ウロクトン)という沙也可の村に行ってみたいという気持ちが強くなりました。

沙也可の村に行った時に、司馬先生は村の長老とも言える人物に出会うわけですが、その長老から「こっちからも日本(むこう)へ行っているだろう。日本からもこっちへ来ている。べつに興味をもつべきではない」と淡々と言われてしまい、その老翁のにべもなさが可笑しく、声をあげて笑ってしまったと感想を残しています。

http://www.geocities.jp/korea_faq/No64/2.jpg

http://www.geocities.jp/korea_faq/No64/3.jpg

私はこの老翁の言葉にこれからの日韓関係を考える上で、とても大切なメッセージが隠されているような気がしてなりません。とかく肩に力が入ってしまう日韓関係ですが、とりわけ私のようにこちらで生活している日本人にとっては何とも意味深く、ある意味で勇気と希望を与えてくれるものでもあります。おそらくこの老翁も祖先が日本から来たと言う事で、若い頃は色々な葛藤や悩みもあったのではないか?と推察されるからです。

この本の出版以来、沙也可が暮らしていた友鹿洞には多くの日本人観光客が来るようになったと聞いていますが、私の場合はそのような観光客とはまた別の視点から沙也可という人物を考えてしまいます。

私から見ると日韓国際カップルの元祖のような存在なので、当時、どのように暮らしていたのかとても興味深く、今のように電話やインターネットで連絡も取れないような状況の中で、異国の地で死んでいく沙也可はどのような気持ちだったのだろうか?後悔などしなかったのか?などなど興味は尽きません。

また、この本の中でも詳しく紹介されていますが、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで当時の百済人が日本に亡命して以来、多くの渡来人と呼ばれる人が日本に訪れるわけですが、彼らの多くはいつかは祖国の再興を願っていたであろうし、追い出した新羅に深い恨みを持っていたと思われます。それらの怨念が秀吉の侵略や植民地時代の遠からぬ遠因になっているような気もするのです。

http://www.asuka-tobira.com/hakusonkou/hakusonkou.htm

国際結婚というのは観方を少し変えると、現代版の最も合法的で安全な韓国進出の手段と言って良いのかもしれません。それを先がけて実践したのが沙也可一族であったとも言えるのではないでしょうか?

私が韓国人女性と結婚する事になり、日本から両親が挨拶のために初めて韓国に訪れた時に、義父が案内してくれたのが扶余(プヨ)だったのです。典型的な全羅道人である義父にしてみれば、百済国滅亡の都となった扶余を最初に見せておきたかったのでしょう。扶余の都は新羅との戦いのために何の跡形も残っていないのですが、それでも唯一の遺跡である百済塔と呼ばれる石造五重塔を見学しました。それを見た時の何とも懐かしいものを眺めるような父親の顔を今でもよく覚えています。

この本を読むと改めて日本と朝鮮との古くからの関係や歴史を垣間見る事ができます。「歴史」とか言うと中学や高校の授業で苦労した方には耳が痛いと思いますが、司馬先生は加羅、新羅、百済の旧跡を尋ねながら、その昔、日本とか韓国などという国家が成立するはるか以前から交流があった事を紹介しています。そして「日本人はどこからきたのか?」という問いに、大きな示唆を与えてくれるでしょう。

韓流ブームに乗って日本では多くの韓国に関するガイド本が出版されていますが、表面的なグルメや観光地案内とは異なる観点から実に深い内容があります。これから韓国に来られる方も、また行って来られた方にもぜひ、お勧めの一冊だと思いました。

■編集後記

ここまで読んで下さり有難うございました。

今回は歴史的な事にも触れているので、不快な思いをさせてしまった方もいるかもしれません。中年オヤジの妄想だと思って大目に見て下さい。韓国に長くいると、日本からやって来る色々な方と接するわけですが、直ぐに溶け込んでしまう人とそうでない人に分かれるのが興味深いです。商談とかをしていてもいつも喧嘩腰になってしまう方とそうでない場合に分かれるのです。そのような姿を横目で見ながら、我々の眼では見る事ができない不思議な因縁のようなものを感じてしまうのです。

それでは皆さん、アンニョンヒケセヨ~!!

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